9月19日 (月)  何か違う

きのう朝、子ども達が元気で日曜学校、80年近く変わらずの子供の声が聞こえる日曜の正尊寺本堂、あたりまえのように続いている。

そんな日曜日ご門徒から電話があり、枕経(臨終勤行)に走り、金襴の袋を預かってきた。
中には葬儀で使う白木位牌が入っている、こちらとしては紙袋方が扱いやすいのに、この過剰包装は何なのだろう・・・・、今の葬儀屋さんは至れり尽くせり、こうしたことで差別化が図れると思っているのだろうか?

お彼岸前の連休、残暑厳しく体は萎えているが、気合いを入れ金襴の袋を持って、少し遠い岐阜郊外のセレモニーホールへ向かった。
駐車場に着くと愛想の良いお姉さんが車の所にかけよって来て
「お荷物お持ち致します・・・」と微笑まれても、小さなカバンと位牌袋しか持っていない、何とも格好が付かないが、不要とジャブをかまし後を付いていく。

三階建てではあるが、それらしい会場は1ヶ所しか無いのに、看板には3家名前が連ねてある、不思議に思い係員に尋ねると、これからお通夜の家以外は家族葬とのこと。

控室では担当のお兄さんが、
「最近は家族葬の意味を取り違えている方が多く、問題だと思います」と、やや感情的に話しかけてくる。

町内も親戚も関わらない近ごろの『家族葬』と名うった倹約ダダクサ葬、セレモニーホールは利益幅が縮小し死活問題なのだろうなと気持ちを察した。

紙袋を金ピカにしたり、さも生きているような化粧を施したり、ライティングやBGMで雰囲気盛り上げたり、残念ながらそこではお念仏との出会いが無い。

亡き人の最初の仕事は、身を持って諸行無常の理を身内や縁者に知らしめ、仏と成り一人でも多く念仏を称える機縁となること。
その仏の働きをお手伝いするのが残された身内の仕事だと考える、その点から自分たちだけで悲しむ自己満足の家族葬は、亡き方が仏と成って働くことを阻害しているのでは無いだろうか。

まだまだ、そこら辺を思い出してもらうよう、やらねばならないことを再確認した金襴の袋だった。

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