Diary 2005. 6
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6月16日 (木)  真宗講座満員御礼

どうも真宗講座は天候に恵まれません。
今日も先日までの天気予報では安気に構えていましたが、朝から雨です。
あ〜ぁ、せっかく藤田徹文先生に来ていただくのに、雨、お参りの出足が下がるかなと心配しました。

しかし、「はよ来んと、良いとこに座れんようになってまうで・・・」
と、傘をさし定刻の1時間以上前から続々とお同行が集まってこられました。
おかげで定刻には200名あまり、満堂になり第20回目の真宗講座開催させてもらえました。
この頃は夫婦仲良くお二人で参詣下さる方が増えてきました。
ありがたいことです、後は2世代二夫婦でのお参りが普通になるよう、チョット趣向を凝らさねばと、目標到達への楽しみが涌いたことでした。

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6月13日 (月)  本山で会議

今日は午後から本山での打ち合わせ会議に招集されました。
懸案となっている少年連盟史の校正作業を外部の方に頼むということで、校正の先生と基幹運動本部委員、関係職員との打ち合わに同席するためのもので、会議は午後からでした。
真夏を思わせる日差しの中、快調に京都まで飛ばし、だいぶ予定時間より早く京都市内に入りました。
本山の喫茶店にでも行って時間を潰そうかなとお思いましたが、ちょうど車の窓から大きな素屋根のかかった東本願寺の御影堂(ごえどう)が目にとまりました。
ちょっと寄ってみようか・・・とハンドルを切りお東さんの門前に路駐、カメラ片手にお参りをさせて貰いました。

境内に入って・・・・さすがお西の二ふりは大きい御影堂、「平成の大修復」と掲げられた看板の取り付けられた工事囲いと素屋根圧倒されました。
ともあれ、工事をしていない本堂(阿弥陀堂)にお参りし、なにげに右手をみると工事中の御影堂の中に灯りが見え人の姿が・・・。
早速そちらへ向かっていくと、何と素屋根を掛け屋根瓦を降ろしている本堂にもかかわらず、下陣に入ることができました。
内陣側はビニールで覆われ工事をしているようですが、下陣は参詣者用に照明が付けられ、真ん中には工事のパネルや模型が展示してありました。

そのパネル展の中にこの御影堂の歴史年表が有りましたが、読んでびっくりしました。
200年ほど前の天明年間の京都大火に始まり明治時代までの間に4度の火災で消失。江戸時代末期の貧しい時代の100年の間に4回も御影堂や阿弥陀堂の再建がされていることを知りました。

今回の平成大修復、私たち西本願寺は国の重要文化財に指定され、修復費用の半分を国庫に頼ってのことですが、お東さんは再建しまだ100年と近代の建物だけに文化財の指定が無く、全て門信徒の浄財で行われるとのこと、“頑張って下さい”と念じつつ山門から頭を下げ路駐の車に戻ったことでした。

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6月12日 (日)  仏教壮年会6月定例会

一月は早い、もう6月第2日曜日、仏教壮年会の定例会です。
調子の悪い旧式キーボードの音に合わせお経のお稽古、『正信偈行譜』と『白骨の御文章』キーボードの調子が悪いだけでなく、私の声も元気がない、途中で息切れしそうでした。

『正信偈』の解説では「摂取心光常照護・・・・雲霧之下明無闇」についてお話、私の好きなフレーズです。先週行った仙崎や豊前学派の話も交えながら、私の欲望は無くならないどころか雲や霧のように空一面おおっています、けれど如来の光は届いている、そのままの救いをお話ししました。
そして、来月行く研修旅行の目的地、姫路の本徳寺や教信沙弥についてのレクチャーでお茶をにごしたことです。

例会が終わってから、役員がの残り研修旅行の最終打ち合わせ、参加者は20名なったようで、皆さんやれやれといった感じ、マイクロバス一台ちょうど良い人数で出かけられそうです。

このところ、田植えや麦刈りで田んぼの忙しい皆様、ご苦労様でした。

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6月10日 (金)  コツコツ事務仕事

だんだんと真宗講座も近づいてきました。回を重ねるごとにしなければならないことが増えていきます。
今回も出席カードの確認をしたら、30回基礎課程のカードが心細くなっていました。当初200枚作りこれだけあれば当分は大丈夫だと思っていましたが、既に180枚以上発行され、カラープリンターでボチボチ印刷し製作。
出席カードも10回用・30回用・50回用と3種類の管理、ややこしくなりますが、思ったより沢山のカードを必要とされる、住職としてはうれしい悲鳴を上げつつ、単純作業に精を出します。

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6月7日 (火)  台所改造

昨日から職人さんがはいり台所の改造工事が始まりました。
正尊寺の庫裏は濃尾震災で倒壊し、明治27年に高富町の古家を移築して建てられたもので相当ガタが来ています。
台所は私が中学校の頃、土間のになっていた所を仕切り床を付け改造し三十数年、今に至ってきました。
坊守からは十数年前から台所だけ何とかして欲しいと頼まれていましたが、そのうち庫裏全体を考えなければいけないからと、はぐらかしながら延ばし延ばししてきました。
しかし、4年前の蓮如上人御遠忌からハードよりソフト、建物よりご門徒の教化へと私の考えが固まり、台所だけ最小限の改造で当面はしのごうと云うことになったのです。

張りぼての作り、簡単に壊れるものです、二人ばかりの職人さんがバール一つであれよあれよという間に何にもなくなりました。
ここ2週間ばかりかけ、台所の食器棚や調理用品夜なべ仕事で片付けながら、余りの面倒くささと疲れから愚痴ばかり言っていましたが、たった1日ばかりでこんなになってしまうとは、職人さんには頭が下がったことでした。

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6月6日 (月)  オーバーブッキング

今日は夕方5時30分から別院で広報部会の編集会議。
これは毎年夏と暮れにお届けする岐阜教区報『念仏の声』夏号の編集作業、結構時間を要するはずでしたが、午後7時から中川北組の住職協議会が有るのでと、編集半ばでご無礼。
委員の皆様には申し訳ないことでした。
7時10数分前に別院を出て、組長さんのお寺に向かう途中、夕方のラッシュ時とも重なり思ったよりスローな車の流れ。
案の定、途中で携帯が鳴り、組長さんから
「忘れてみえないでしょうね?」と、
確認の電話、10分ほど遅れ会場の光輪寺さんへ到着、頭をおたべちゃん人形のようにペコペコ下げながら会議の席に着きました。
会議のオーバーブッキング、どちらにも迷惑をかけました。
申し訳ないことでした、関係者の方がこの雑記見ておられたたら「ゴメンなさい」です。

組内会は深夜まで今年の行事計画の細部にわたる話し合い、なんだかとっても疲れてうちまで帰ってきました。宿題も一杯出され、今週も忙しくなりそう。
組長さんの念仏のみ教えを組内に行き渡らせるべく頑張りましょうの、かけ声に押され、まぁ楽しくやるかと開き直り仕事をさせて貰うことです。

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6月3日 (金)  無事帰還

大分港からサンフラワーに乗って神戸港へ、朝7時到着。午前中に無事お寺に帰ってきました。
六甲アイランドの波止場で車を入れて一枚。

参加者8名ワゴン車2台、3日間で1500qの行程事故や故障もなく元気で走ってくれました。

今回、初参加の善徳寺さん、うちのワゴン車、このお寺の中古車を譲ってもらった物。
出発当初、善徳寺さんが
「この車大丈夫か・・・・九州まで行けるか?、私が買ってからもう20年くらいになるやろ。」
正尊寺へ来てから12年、10万キロ、名神・山陽自動車道を巡航速度120qで5時間以上まったく問題なく元気で走ってくれました。

お寺への参拝は車が一番です、持って行くお土産、貰って帰るお土産、荷物の心配なく自由に回れます。
しかも、カーナビのおかげで、初めての土地にもかかわらず一度も地図を開けること無し。
その上4人で割ればほんの少しの交通費で済みます。
まだまだ、このワゴン車活躍してくれそうです。

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6月2日 (木)  研修旅行3日目

山口・北九州の研修旅行最終日は別府別院からお参りしました。
別府別院は本願寺の前々御門主大谷光瑞様が晩年療養生活を送られ、亡くなられた所です。
そのため、別府別院には光瑞様の功績であるシルクロード大谷探検隊の遺品を展示する大谷探検隊記念館があります。

前夜は別府温泉に浸かり旅の疲れを癒し、朝一番に別院を訪れお朝事をお勤めし輪番さんから光瑞様と別府別院についてお話を聞き、記念館の数々の遺品を見せてもらいました。
明治末期から西洋列強に先んじて仏教東漸の遺跡の発掘、本願寺の財力を傾けての大事業賛否両論がありますが、あの当時これだけのことを推進された手腕には感激しました。

別府をあとにして大分の専想寺へ、ここは蓮如上人の命を受け九州へお念仏の教えを広める拠点となったお寺です。
本堂で前住職さんから
「はるばる岐阜からようこそ来なさった、岐阜といえば杉山雲泰さんという友達がいたが・・・・」
雲泰さんは正尊寺から伊勢の白子へ養子に行ったおじさんのことで、この話が出てからは大変和やかに専想寺の歴史を聞かせてもらえました。

この旅行の最後は臼杵の石仏見学、観光になってしまいましたが、30年前学生時代リュックを背負って来たときは、石仏のお顔が地面に置いてありすごくインパクトがあったのに、今は普通の石仏に納まっていたのにはびっくりしました。

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6月1日 (水)  本願寺の和上とは

今日は豊前学派と呼ばれる大分県の江戸時代末期から沢山の勧学さんを排出されたお寺を回りました。
本願寺の宗学の最高学位である勧学と呼ばれる学僧を和上(わじょう)と呼びますが、1日かけて7ヵ寺の和上がおいでになったお寺を回り、お話を聞かせてもらいました。
一人の和上の元へ全国から沢山のお坊さんが集まり学寮と呼ぶ私塾にに寝泊まりし数年かけ真宗の法義を学び、そしてまた全国へ帰り、そこでみ教えを弘めていく。

金子みすずのお寺、遍照寺もこの豊前のお寺さんの教線の中にあり、親鸞聖人→蓮如上人→豊前の学寮→金子みすず(妙好人)と確かなみ教えの流れを実感したことでした。

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